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「何もない」は本当?瀬戸の放課後デイで学ぶ尾張旭の歴史③

毛受勝介家照めんじょう しょうすけ いえてるの人生ってすごい‼

 

水野又太郎の子孫に毛受勝介家照めんじょう しょうすけ いえてるがいることは先にも述べましたが、

彼の父が稲葉村に移住して毛受姓めんじょうせいに始まりであるとされています。

 

諸説はありますが、

毛受氏の子孫が尾張藩に使え水野姓になっていることから

上記の説が有力であると思われます。

 

毛受勝介家照めんじょう しょうすけ いえてるは12歳から柴田勝家の小姓として仕えた。

 

17歳の時に伊勢長島攻めに従軍した際勝家軍の馬印が

一揆勢いっきぜいに奪われた時に毛受が見事の馬印を奪還し、

その功績で勝家の勝と家をもらい受け毛受勝介家照めんじょう しょうすけ いえてると名乗ることを許された。

 

天正11年(1583)の賤ケ岳しずがたけの戦いで、

柴田軍は秀吉軍に敗れ勝家は討ち死にを覚悟したが、

毛受が「総大将は居城きょじょう籠城ろうじょうすべし」と進言し、

自ら勝家の身代わりになることを決断した。

 

秀吉軍が包囲すると勝家の馬印「金の御幣ごへい」を掲げ対峙した。

 

兄と共に奮戦し、
勝家退去の時間稼ぎをした後兄弟共、討ち死にした。

 

秀吉はこの忠義を激賞し、

毛受兄弟の母に首を返すと共に母の生涯に渡って家禄を施した。

 

明治9年(1876)「滋賀県、令籠手田安定こてだ やすさだ」によって墓が建てられました。

 

その後現在でも地元(長浜市余呉町)の歴史保存会の皆さまの手で、

月命日の4月21日の前日にお墓掃除が行われるなど、

あつく見守られています。

 

参拝記帳者には全国の毛受さんのみならず

多くの方々の名前が散見されます。

 

また尾張旭市文化会館にある毛受勝介家照めんじょう しょうすけ いえてるの立像の揮毫きごう

中曽根康弘なかそね やすひろ」氏であり、

毛受勝介家照めんじょう しょうすけ いえてるの故事をよくご存じだったそうであります。

 

菩提寺ぼだいじとしては余呉町の全長寺と尾張旭市少林寺があります。

こんなTシャツもあります。(もちろん武田所有です)

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